薬師寺吟行記
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平成18年1月8日  門田窓城
 引鶴恒例の吟行は毎月第2日曜日である。今年の初吟行は初薬師の日に当る事から新暦が出来た時から決っていたようなものであった。
 
 三ヶ日も過ぎると30年来の寒波襲来とかで雪催いの曇天が続き心配していたが、当日はからりと晴れた朝となった。見事な四温晴と云うか寒晴れである。
 
 御存知の通り薬師寺は天武天皇の発願で、持統天皇の本尊開眼、その後平城遷都に伴って、現在地にその苑美を誇ったと云はれたが、以後幾多の災害を受け、特に享保の兵火では、東塔を除く諸堂が灰燼に帰した。
 
 その後失はれた堂塔伽藍の復興は、薬師寺の一大悲願とされてきた。
 
 昭和43年高田好胤管主の始められたお写経勧進による全国からの浄財によって、52年金堂、56年西塔と順次復元が成り、今日では個々の堂塔の美しさのみでなく、伽藍全体の荘叢なるたゝずまい、景観を見せている。
 
 興楽門を入れば寺苑で、東僧坊を抜け鐘棲を過ぎると、龍宮造と呼ばれる裳階を付した金堂、東西両塔、大講堂に諸堂、回廊等が如何にも白鳳の美しさで視界を満たしてくれる。
 
 先づは東塔で白鳳時代をそのまま伝える国宝である。裳階をつけているので六重に見えるが三重の塔で特異な形ではあるが全体として律動的な美しさを保ち、他の堂塔の複原の範を為した塔である。
 
 この塔は「凍れる音楽」の名を持っている。魅惑的な言葉であるがなる程と思えう。
 
 頭頂を飾る水煙は下からでは詳細は見えないが模型を観察すると透し彫の4枚葉で2枚1対の対称形となってをり、飛雲の中、天衣を翻し飛翔する3体(1葉につき)の天人を表はしている。
 
 上方の一体は両足を揃え手には花弁様のものを持ち、中の1体は一方の脚を折り曲げ、手には花篭らしいものを持って、共に頭を下にして舞い下りる風情である。
 
 下方の1体は片膝をついて横を向き、瞼を閉じて横笛を吹いて天衣を大きく翻している。
 
 まさに飛雲の天人が戯れる軽快なリズムであり、天上より散華、妙音を奏でて塔上に飛来した姿はまこと仏世界を荘叢する巧みな演出である。紺碧の寒天におゝらかな天上の音楽を響かせていると思えばやはり白鳳である。
 
 尚東塔に祀られているのは、お釈迦様の肋骨も露はの苦行仏であった。東塔を静かで長年の風雪に耐えた白鳳とするならば、きらびやかな現代の白鳳は西塔であろう。
 
 白鳳を直接伝へている東塔を基盤として綿密な調査検討の上、古代技法と現代技術の整合によって白鳳を甦えらせたのである。
 
 相輪の金、垂木尖端の金物の金、白壁に浮かぶ高欄の朱、各層を支える組物の朱等々、まこと創建当時の華麗さそのものであり印象的である。祀られているのは黄金の釈迦座像でした。
 
 東回廊の外側の通路を行くと左手に東院堂がある。基壇の石段をあがると板敷で靴を脱いで上る。
 
 中央奥の黒漆の大形厨子には丈の高いのびやかな姿の聖観音像が右手を静かに下げ、左手を挙げて蓮の茎を持つポーズをとりながら、胸を張り両足を正しく揃えて如何とも万葉の貴公子を思わせる。
 
 南門を出て左手は孫太郎稲荷神社、突き当りが休ヶ岡八幡宮で折しも、石積の壇上では禰宜が祝詞をあげ、巫女と父娘が深く頭を下げて侍っている。

 祀られているのは、僧形八幡神を中央に神宮皇后と仲津姫命を配した薬師寺の鎮守八幡宮である。
 
 宮を抜けると薬草園で冬ざるるである。その先は駐車場で観光バスが着いている。
 
 引き返して南門を入るとすぐ回廊をつなぐ中門で、中央向うには二重各裳階付の堂々たる金堂がぴったし納まっていて、両側には阿吽の仁王像が武装の極杉色で見上げる大きさである。
 像高約4米だと云う。金堂では縁日法要が総出仕と思えはれる程の御僧によって執行されている。
 
 堂に溢れんばかりの善男善女が僧の大般若経に斉唱して粛条である。.律令国家の文化的象徴として金堂内に安置された、天武天皇発願の薬師三尊像は、天下屈指の名像として貴掲されてきたと云う。
 
 中央の丈六の薬師如来像は偉丈夫然とした大らかな尊容をみせ、たくましく内実した端叢な姿で、張りの強い堂々とした体駆に薄手の衣を纏い、左脚を上に組んで須弥座上に結跏趺座されている。
 
 右手は掌を前に指を一寸捩じって、説法印と称するのだと云う。左手は膝上にゆったりと置き、中指を曲げているのは薬壷を支えていたのではないか。今薬壷はない。
 
 古い記録によれば青瑠璃の壷を置き、そこに不死の霊薬を納めていたと薬師寺の文献にある。左手で不思議な光を放って礼拝客の注目を浴びたであろう事か容易に想像される。
 
 輪郭のはっきりした端正な面相、頭、体、四肢各部の整った体躯、柔軟で充実した肉付等、仏の形姿としては最も洗練された美しいものであり、中国の唐代彫刻の理想美を継承しているとも云っている。
 
 .薬師三尊の脇侍は向って右が日光遍照菩薩、左が月光遍照菩薩で、それぞれ頭を中奠の方へ傾げ、腰のひねりをきかせた立ち姿で、重心を中尊側の足に移し外側の足を遊ばせた動きのある姿勢である。
 
 頭部、上半身、下半身とで傾きを違えたこの特徴は後にトリプルハンガと呼ばれたインド彫刻の理想的な身体構築法であると云う。
 
 この国宝である薬師三尊の正面に対していて、ふと、最近の中国の経済的台頭が日本の将来に恐怖をもたらすのではないとの危惧を感じた事を記しておきたい。
 
 初薬師の薬師寺で見落してはならぬものに吉祥天女像がある。金堂中尊の前に祀られた縦2尺足らず、横約1尺の絹布画像で奈良時代には福徳豊穣の守護神として崇敬されたものである。
 
 吉祥天は円光を負い、髪に簪を飾り、左手掌に福徳を象徴する赤い宝珠をのせている。
 
 右手はそれに添えるがごとく掌を伏せて胸前に置き、右方に緩やかに歩を進める白肉身に賦され、ほのかな淡紅の隈取や髪際の毛描、髪のほつれ、赤い口唇、胸元に僅かにのぞく乳房のふくらんでいる。
 
 そして細かくしなやかな指先の描写等、何れをとっても精緻、優艶である。
 その容貌はまさに蛾眉豊頬の唐代美女で、豊満な肢体には多彩な衣装をつけ、薄羅の頒布をなびかせている。それはまさに仏画ではなく美人画である。
 
 本尊薬師如来の台座に浮彫されている文様は、当時の世界各地の文化を集約している。
 
 上框にギリシャの葡萄唐草文、中框にインドの福神像、下框に中国の四方四神(東・青竜、南・朱雀、西・白虎、北・玄武)そして周囲にはペルシャの蓬華文が彫られている。
 
 これは奈良時代の日本の文化が、国際的な広がりを持っていた証左であろう。金堂を後ろに抜けると大講堂で、正面41米、奥行20米、高さ17米あると云う。伽藍最大の建造物で金堂もよりも大きい。
 
 これは古代伽藍の通例で、南部仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧を集めて経典を講讃した為だそうです。
 
 この大講堂の御本尊は彌勒三尊像です。またその後には仏足石・仏足石歌碑が安置されていましたが文字は私には読めませんでした。そしてその両脇にはお釈迦様の十大弟子も祀ってありました。
 
 句会は生駒のコミュニティセンターで何時もの通り主宰を中心に和気藷々、それにしても白鳳の美しさに魅せられた満足の吟行であった。多数の御参加ありがとうござました。次回もよろしく。
 
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薬師寺が紹介されているホームページ
http://nara-yakushiji.com/