東大寺・奈良公園吟行記
haidan-06.gif haidan-05.gif
平成18年6月11日  八木 徹
 6月11日、引鶴の東大寺及び周辺の吟行に参加した。
 午前10時、近鉄奈良駅の行基像前に集合し、東大寺を目指し歩き始め、興福寺の北参道に入る。
 
 興福寺の東金堂は、726年に聖武天皇が元正天皇の病気平癒を願って造立され、現在の建物は1415年の再建。
 
 この辺りには、天然記念物の鹿が沢山いて、石段を降りて猿沢池畔に至る。池には、亀が甲羅干しをしていた。
 
 見渡す隈りの青葉と鹿に目を奪われているうちに、南大門に着いた。
 
 南大門は東大寺の正門で、1203年に竣工した入母屋造は、5間3戸2重門の高さ25.5mもあり、大仏殿にふさわしい我国最大の山門である。
 
 どの柱にも剥落した跡が目立ち800年の歴史を彷彿する。
 
 さらに歩を進めると大仏殿である。中門の近くでは小学生が列をなしている。回廊の左側より入ると、前庭の青芝の鮮やかな色が目にしみる。
 
 大仏殿は東大寺の金堂で、奈良時代の中頃、751年に大和の国分寺として創建された。聖武天皇は世の中の乱れを癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかると詔を出された。
 
 しかし1180年と1567年に兵火に罹っていて、今の建物は江戸時代に公慶上人により3度目に建て直されたものである。
 
 ただ天平・鎌倉時代の大仏殿は桁行11間であったが、再建では、7間に規模が縮小された。
 
 それでも高さや奥行は創建時のままで、世界最大の木造建造物で、高さ48.7mもある。屋根の鴟尾が梅雨晴に光っていたのが印象に残る。
 
 本尊の大仏さまは正しくは毘盧遮那(びるしゃな)仏と言い、華厳経の教主とされ釈迦如来の別名で、像は青銅で鋳造され鍍金が施されていた。
 
 工事は3年、8度の鋳継ぎにより749年に完成し、752年に盛大な開眼供養会が行なわれた。
 
 しかし855年の大地震、又その後の失火、1180年の平重衡の兵火により伽藍の大半が灰燼に帰した。
 その後、20数年間の復興事業により、両手は桃山時代、頭部は江戸時代のものだが、盛時を復元した。
 
 この日桟唐戸が閉ざされていて外よりお顔を拝することは出来なかった。大仏殿に入ると高さ15mある大仏さまの大きさに圧倒された。
 
 合掌し人の流れに沿い裏に回ると人垣が出来ていた。柱に穴があり人が潜る度に喝采していた。大仏殿を出ると正面に国宝の八角燈籠が立つ。
 
 全体的に青黒く近寄らないとはっきり見えない。八角燈籠は東大寺創建当初のもので、再度にわたる兵火にも難を免れた。
 
 宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり火袋が特に大きい。各扉のうち4面には音声菩薩が、他の4面には雲中を走る4頭の獅子が、それぞれ菱格子の透し地に浮彫りされている。
 
 とりわけ音声菩薩の意匠はすばらしく、しなやかな体つき、楽器を執る腕先と胸のあいだの遠近感、風を受けて摩く天衣など、立体表現が見事だった。
 
 回廊より外に出ると前に鏡池が広がり鯉や亀が泳いでいた。
 
 そして四囲の万緑を写せる鏡のようであった。少し歩くと二月堂への遣標が立っている。
 
 二月堂の名は、このお堂で修二会が旧歴の2月に行なわれることから起こっている。南大門を出て昼食をとる。
 
 しばらく行くと右手に朱の鳥居が見えた。氷室神杜で、祭神に額田大中彦らを祀る。
 
 奈良時代、春日野の氷池や氷室の守り神として、山の神を祀ったのが氷室神社の由来とされる。神池には一面睡蓬の葉を広げ、花は自く紅を薄く引いていた。
 
 このあと句会場の中小企業会館に急いだ。通じて奈良の万緑と大伽藍そして多数の鹿に満喫した。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 東大寺が紹介されているホームページ
https://www.todaiji.or.jp/