慶長8年現在の二の丸御殿の部分が完成して、家康が入城し、将軍宣下となる。ここに徳川幕府の誕生と云う新しい歴史がこの城を舞台にして始ったのである。そしてそれは菊と葵の和合と相克の歴史の始りでもあった。
秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内のとき天皇の行幸を迎へる為に行幸御殿を建て、同時に二の丸御殿と庭園の改造改修を行った時の幕府の指示書が残っている。
二の丸御殿は二条城で唯一残された江戸初期の遺構で、3万平方米を超へる敷地に遠侍・式台・大広間・黒書院・自書院と少しづつ後づさりする雁行の形で連なっている。
何れも武家屋敷の建築様式として室町期に始まり江戸時代に確立した書院造であり、すべて本瓦屋根であるが創建当時は柿葺であったそうです。
見学の最初の建物は遠侍で、車寄せの横の階段を上ったところからである。遠侍は家臣が伺候する部屋を指し、諸大名の控えの間であった。
この建物が最も大きいと云う。国宝保護の為とかで外戸が閉ざされて薄暗いけれども、金造りのまぶしさの中を歩く。北奥の勅使の間が主室で勅使が将軍との対面に先立って通された部屋との事。
豪華な違い棚に格天井、障壁画は虎を配したもので玄関に近い間として権威を表はしたものと説明されている。
大広間は将軍が諸大名と対面する場で、最も公的な意味を持っている。将軍対面の場が人形で表示され、将軍の権威が偲ばれる。
障壁画は金地松・孔雀図で、欄間は極彩色の孔雀に松・牡丹の透かし彫であり、実に高雅である。幕末の大政奉還奉還宣言もこの部屋で行われた。
最後は白書院で将軍の居間や寝所として使われ、書院造りの原則は守られているが他に比して、落ち付いた雰囲気が感じられる。勢威を示す場でなく、寛ぐ私的な空間である事を思はせる。
障壁画も目にまぶしい絢爛豪華な金碧画でなく、淡彩の山水画や花鳥画となっている。
障壁画並べて狩野派城小春 佐知
うぐいす廊も通って御殿巡りを終へると二の丸庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したと云う。
池の中央に蓬莱島を、それぞれ左右に鶴島亀島を配し、4つの橋を架け西北隅に滝を備え、池の汀に配されたさまざまな形と色の岩石が、変化に富んだ石組みの美しさを見せている。
二の丸の林泉に来遊ぶ石たたき 佐知
時雨来て高殿展示ゆるり見る 木賊
今回の吟行は全くの新人参加もあり、句材も盛り沢山で満足して頂いたと思ってをります。
以 上
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