二条城・放鷹吟行記
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平成18年11月11日  門田窓城
 11月引鶴恒例の吟行は、11日京都の眞ン中、元離宮の二条城で放鷹術の実演があるとの情報があって、早や早やと決定されていた。
 
 放鷹は、午前と午後の2回行われる。我々は午前10時からの開始に問に合すべく、三条で地下鉄に乗替えて、二条城前駅で下り案内標示に従って階段を上るとすぐ目の前の向う岸に、隅櫓が聳え立っている。
 
 その角を左へ曲ると二条城の正門と云はれる東大手門である。この門は石垣の上に二層の櫓を掛け渡したその下の問口5間の門で、石垣に沿って東南隅櫓にいたる景観は威風堂々とそ城郭にふさわしい。
 
 大きな門柱には筋金を打ちつけ、上の櫓には衛士が武者窓に詰め、門の眞上には、石落しも備えた堅牢な構えであると説明されている。
 
 さまざまな蔵の建ち並ぶ間を抜けて、緑の園に入る。そこで放鷹が行われる。入口からの観覧席は既に満席で、広場は、一面の枯れかけた芝生に覆はれ、紅葉黄葉の樹木が周囲を埋めている。
 
 左手が高くなっていて、放鷹術の看板があり、正面右寄りのテントが鷹と鷹匠の控室である。
 
   放鷹の伝統文化吟行に  佐知
  
   二条城予報に変はる鷹日和 窓城
 
 待つ程もなく実演開始である。先づは鷹と鷹匠の詔介で、先頭は堂々の鷹匠で、流石の風貌であり、その腕の鷹は凛として赤房を垂らし王者の瞳を尖らせている。鷹匠の歩みにも微動だにせず、成る程鷹であるを思はせる。
 
 鷹狩は鷹を餉い慣らして鳥獣を捕捉させ、それをとりあげる間接的な狩猟法で、用ひられる猛禽類は鷹、隼、鷲等で種類は多い。
 
 鷹狩は昔から世界各地で行われていた記録があって、最も古くは西歴前700年。ヨーロッパの貴族の間で大流行したのは5〜8世紀とあります。
 
 日本には朝鮮半島を径由して伝来し、古くは日本書紀に記録が残っている。6〜7世紀には天皇、貴族の間で野外娯楽として楽しまれたと言う。
 
 戦国時代以降は武士の間で人気があり、冬に行うのを大鷹狩、秋に行うのを小鷹狩と云ったてうです。
 
 現在は鷹の捕獲の飼育が制限されている事もあり宮内庁式部職が所管して、その技術を細々と伝承しているに過ぎない。さてその技術の披露である。
 
 最初はそれぞれの鷹匠の革の腕を放たれた鷹が一舞して元の腕に帰ってくる。少し馴れてきて、何だの気観客に生れてきた頃、鷹が近くの高木へ飛んで行って知らんぷり。鷹匠が餌を見せたり、竹を叩く音で帰ってくる。
 
 観客を心配させて安心させる。鷹は賢いのだと改めて思う。しかし鷹狩は狩猟である。野面を獣に似せた餌を滑るように投げると鷹は素早く反応し、全く素早く飛んで両翼をひろげて捕らえる。
 
 圧巻は鳥の狩猟である。銀杏高木に止っているそ知らぬふりの鷹に、鳥に見せかけた餌を投げ上げると、素早く飛んで捕らえと急降下、地面で両翼をひろげて、しっかと確保する。
 
 驚きはその速さである。流石と舌を巻く感じを受けたのは私だけではあるまい。学童の飛び入りの鷹匠もあって楽しい時間であった。
 
   家康の城放鷹を今になほ 窓城
    
   鷹匠の男小意気なハンチング 窓城

 徳川家康が関ヶ原の戦に勝って、秀吉に代る天下人として王城の地、京都に自らの拠点を設け、朝廷はもとより諸国諸藩にその勢威を示す目的で、西国大名に命じて築造したのが二条域である。
 慶長8年現在の二の丸御殿の部分が完成して、家康が入城し、将軍宣下となる。ここに徳川幕府の誕生と云う新しい歴史がこの城を舞台にして始ったのである。そしてそれは菊と葵の和合と相克の歴史の始りでもあった。
 
 秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内のとき天皇の行幸を迎へる為に行幸御殿を建て、同時に二の丸御殿と庭園の改造改修を行った時の幕府の指示書が残っている。
 
 二の丸御殿は二条城で唯一残された江戸初期の遺構で、3万平方米を超へる敷地に遠侍・式台・大広間・黒書院・自書院と少しづつ後づさりする雁行の形で連なっている。
 
 何れも武家屋敷の建築様式として室町期に始まり江戸時代に確立した書院造であり、すべて本瓦屋根であるが創建当時は柿葺であったそうです。
 
 見学の最初の建物は遠侍で、車寄せの横の階段を上ったところからである。遠侍は家臣が伺候する部屋を指し、諸大名の控えの間であった。
 
 この建物が最も大きいと云う。国宝保護の為とかで外戸が閉ざされて薄暗いけれども、金造りのまぶしさの中を歩く。北奥の勅使の間が主室で勅使が将軍との対面に先立って通された部屋との事。
 
 豪華な違い棚に格天井、障壁画は虎を配したもので玄関に近い間として権威を表はしたものと説明されている。
 
 大広間は将軍が諸大名と対面する場で、最も公的な意味を持っている。将軍対面の場が人形で表示され、将軍の権威が偲ばれる。
 
 障壁画は金地松・孔雀図で、欄間は極彩色の孔雀に松・牡丹の透かし彫であり、実に高雅である。幕末の大政奉還奉還宣言もこの部屋で行われた。
 
 最後は白書院で将軍の居間や寝所として使われ、書院造りの原則は守られているが他に比して、落ち付いた雰囲気が感じられる。勢威を示す場でなく、寛ぐ私的な空間である事を思はせる。
 
 障壁画も目にまぶしい絢爛豪華な金碧画でなく、淡彩の山水画や花鳥画となっている。
 
   障壁画並べて狩野派城小春 佐知
 
 うぐいす廊も通って御殿巡りを終へると二の丸庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したと云う。
 
 池の中央に蓬莱島を、それぞれ左右に鶴島亀島を配し、4つの橋を架け西北隅に滝を備え、池の汀に配されたさまざまな形と色の岩石が、変化に富んだ石組みの美しさを見せている。
 
   二の丸の林泉に来遊ぶ石たたき 佐知
   
   時雨来て高殿展示ゆるり見る 木賊
 
 今回の吟行は全くの新人参加もあり、句材も盛り沢山で満足して頂いたと思ってをります。
以 上         
 
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二条城の紹介
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/   
 
二条城・放鷹術の紹介
https://www.kyoto-tabiya.com/2013/12/23/33433/