2月12日、引鶴の京都銀閣寺と哲学の道一帯で行はれた吟行に参加した。京阪電車で三条駅からバスで銀閣寺道で降りると哲学の道である。疎水沿いに行く。敷石の囲りの下萌え、道を逸れたところの黄梅が印象的だった。
桜の頃の豪華さを思い浮べながら10分程遡ると銀閣寺の参道に入る。登り坂の両側は土産店で、京都らしさが溢れている。古式ゆかしさの邸宅にふと見上げると歌舞伎役者の門標であった。
1キロ程歩いて、銀閣寺の古びた総門を潜る。中門に至る50m程の高い両側の生垣は、銀閣寺垣と呼ばれ、石、竹そして剪定された椿の木で作られている。この3つの調和が美しい。
折しも椿は蕾をふくらませ、ところどころで花を咲かせている。銀閣寺とは通称であり、正しくは東山慈照寺である。室町幕府足利八代将軍義政公によって、隠栖生活を過ごす為造営された山荘東山殿がそのルーツである。
義政公は15歳にして征夷大将軍の座につき、政治の世界を嫌って、生涯を東山殿の造営に託し、8年の歳月を費して、自らの美意識の全てを投入し、東山文化の眞髄たる簡素枯淡の美をここに遺したのである。
しかし義政は完成のとき既に56歳を一期として世を去っていた。死の間際まで観音殿の内装について指示を下していたと云う。慈照寺の名は義政公の法号慈照院に因んでいる。
中門を潜って順路を行くと、先づは方丈(本堂)で江戸中期の建造である。御本尊は釈迦牟尼仏が安置されている。前庭には白砂で作られた銀沙灘で、波紋を表現している。
右方向うには富士山を形取った向月台があって、そのコントラストは私達を魅了する。
その奥に国宝の観音殿(銀閣)がニ層から成り、一層の心空殿は書院風、二層の潮音閣は板壁に花頭窓を設へて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式、屋根は柿葺で閣上にある金銅の鳳凰は東面している。
本堂から見る月待山は絶景である。本堂に続いているのが東求堂であるが、そのつないでいる廊の辺に袈裟形手水鉢がある。桧皮の屋根が新しく、勿論そんじょそこらにある手水鉢ではない手のこんだ立派な造りである。