銀閣寺・哲学の道吟行記
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平成18年2月12日  八木 徹
 2月12日、引鶴の京都銀閣寺と哲学の道一帯で行はれた吟行に参加した。京阪電車で三条駅からバスで銀閣寺道で降りると哲学の道である。疎水沿いに行く。敷石の囲りの下萌え、道を逸れたところの黄梅が印象的だった。
 
 桜の頃の豪華さを思い浮べながら10分程遡ると銀閣寺の参道に入る。登り坂の両側は土産店で、京都らしさが溢れている。古式ゆかしさの邸宅にふと見上げると歌舞伎役者の門標であった。
 
 1キロ程歩いて、銀閣寺の古びた総門を潜る。中門に至る50m程の高い両側の生垣は、銀閣寺垣と呼ばれ、石、竹そして剪定された椿の木で作られている。この3つの調和が美しい。
 
 折しも椿は蕾をふくらませ、ところどころで花を咲かせている。銀閣寺とは通称であり、正しくは東山慈照寺である。室町幕府足利八代将軍義政公によって、隠栖生活を過ごす為造営された山荘東山殿がそのルーツである。
 
 義政公は15歳にして征夷大将軍の座につき、政治の世界を嫌って、生涯を東山殿の造営に託し、8年の歳月を費して、自らの美意識の全てを投入し、東山文化の眞髄たる簡素枯淡の美をここに遺したのである。
 
 しかし義政は完成のとき既に56歳を一期として世を去っていた。死の間際まで観音殿の内装について指示を下していたと云う。慈照寺の名は義政公の法号慈照院に因んでいる。
 
 中門を潜って順路を行くと、先づは方丈(本堂)で江戸中期の建造である。御本尊は釈迦牟尼仏が安置されている。前庭には白砂で作られた銀沙灘で、波紋を表現している。
 
 右方向うには富士山を形取った向月台があって、そのコントラストは私達を魅了する。
 
 その奥に国宝の観音殿(銀閣)がニ層から成り、一層の心空殿は書院風、二層の潮音閣は板壁に花頭窓を設へて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式、屋根は柿葺で閣上にある金銅の鳳凰は東面している。
 
 本堂から見る月待山は絶景である。本堂に続いているのが東求堂であるが、そのつないでいる廊の辺に袈裟形手水鉢がある。桧皮の屋根が新しく、勿論そんじょそこらにある手水鉢ではない手のこんだ立派な造りである。
 
 本堂の廊続きに造営時のままの平家入母屋造桧皮葺の最古の書院造と云はれる国宝の東求堂がある。当初は義政公の持仏堂で、阿弥陀如来を祀る阿弥堂であった。
 
 堂内の同仁斎と呼ばれる四畳半書院は草庵茶室の源流であり、四畳半の間取りの始まりと云はれる。銀閣、東求堂の前に、月待山を背景とした池泉回遊式庭園が広がる。
 
 四方正面の庭と云う。どの角度からも鑑賞できるところからこの名がある。中心を占める錦鏡池には7つの石橋、4つの浮石がある。中でも立札のある坐禅石が中程にあって、どうして渡るのか疑問が残った。
 
 巡路札があって山肌の濫を上がる。最初の小さい平坦地には義政公が茶の湯の水を汲んだと云う泉が今も涸れずに水を流していた。近くに茶室の跡地があった。
 
 更に山肌を西方へ行くと道を広げただけの展望所がって、この美しい寺苑を俯瞰すると共に、京都の市を一望する事ができる。
 
 義政公の気分にもなってそ絶景を楽しませて戴きました。又道の近くに一筋の高い滝があって、洗月泉と表示されている。月を洗うとはまさに酒落れた名である。
 
 山肌を下り銀閣のそばを通り抜けると銀閣寺巡りが一通り終る。この東山殿は西芳寺(苔寺)を模して作られたので庭は全面苔で覆われ、実に美しい。
 
 それにしても銀閣の径年劣化が気になったのは私だけではあるまい。
 
 昼食を済ませ、句会場は光明寺である。午後1時40分締切。佐知主宰から句評、問題句の指導等を頂き句会を終った。時に風花の舞う冴返る天候の日でしたが多数の御参加有難うございました。
 
 
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銀閣寺が紹介されているホームページ
https://tabigo-media.net/ginkaku-highlight/
 
哲学の道が紹介されているホームページ
https://souda-kyoto.jp/guide/spot/tetsugakunomichi.html