膳所城址一帯吟行記
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平成18年9月10日  足立靖子
 9月10日(日)は引鶴恒例の吟行会でした。
 膳所神社に午前10時集合、その後、約30分それぞれ作句にいそしんで居られました。
 
 膳所神杜がある大津市は、天智天皇が大津京として遷都以来の歴史を持つ古都であり、三井寺や日吉大社などの神杜仏閣が多い所でもあります。
 
 膳所は、天智天皇がこの地を御厨所と定められて、天武天皇の6年に大和国より奉遷して、大膳職の御厨神とされ、故にこの地を膳所というようになったとのことです。
 
 百人一首の権中紬言定頼の歌
 
朝ぼらけ宇治の川ぎりたえだえにあらわれわたる膳所の網代木
 
 膳所神杜の祭神は、豊受比売命(とようけひめのみこと)で、奈良時代の創祀と伝えられています。 また、中世には、諸武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉、北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。
 
 神社の表門は、旧膳所の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年の膳城域取り壊しの際に移築したものです。門は、棟筋と扉筋が同一の垂直面にない薬医門で、どっしりとした構えを見せていました。
 
 屋根瓦には、旧膳所城主本多氏の立葵紋が見られ、貴重なものらしいです。
 
 膳所城は、大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つです。徳川家康が関ヶ原の合戦の翌年、大津城を廃し、東海道、琵琶湖の押さえとして築きました。
 
 縄張りを藤堂高虎、普請を8人の奉行があたる天下普請の域といわれています。

 城構えは、湖水を利用して西側に天然の濠を巡らせた、典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の濠、櫓が美しく湖面に浮かぶ姿は、想像を絶します。
 
 家康がこの地を選んだ理由は、音から「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」といわれた瀬田の唐橋に近い場所であったからと言われています。
 
 「琵琶の名城」と呼ばれ、広重の五十三次にも描かれているそうです。
 
里謡にも、
 
瀬田の唐橋唐金擬宝珠水に浮かぶは膳所の城
 
と謡われています。
 
 水に映え、琵琶湖に浮かぶ城も、明治維新で廃城になり、現在本丸跡は膳所公園として整備されて、春には桜の名所としてにぎわっています。
 公園には歌碑がありました。

琵琶湖の水みずうみながら流れたり膳所の浜辺をゆるく流ひつ

 伊予石の自然石の碑面にブロンズをはめ込んだもので、飯田棹水の自筆だそうです。琵琶湖の美しさが詠まれて、感動しました。
 
少年の目の還りくる石鹿の渚辺ぬくし鮎も寄りくる
 
伊藤雪雄の自筆で、作者が少年の日に過ごした膳所公園のあたりの思い出にひたりながら詠んだのでしょうか。ちなみに膳所城は通称、石鹿城とも望湖域ともいわれています。芭蕉の句碑も湖岸近くにありました。
 
 元録7年5月、最後の上方西上の折り、膳所の能役者、游刀宅で詠んだ2句のうちの1句でした。
 
湖や暑さを惜しむ雲の峰
 
 湖に目をやれば、周囲の山並みと一体になって、風光明媚な景観の一部となっている近江大橋が柔らかい曲線美を描いています。
 
 この大橋は、滋賀県の政治、経済、文化の中心地大津市と、産業、経済の発展めざましい湖南、湖東地域を結ぶ幹線道路です。
 
 昭和9年完成で、全長1,290メートル、湖南、湖東地域の交通渋滞緩和を目的として造られた有料道路です。三角形した美しい独立峰、三上山も姿を見せてくれました。標高432メートル、「近江富士」と呼ばれています。
 
 今から千年位前、この山を7巻半も巻いた大百足を瀬田の唐橋から、弓矢で退治したという、俵藤太の伝記が残っていて、百足山とも呼ばれています。
 
 湖岸には、萩の花があっちこっちに咲いて、糸トンボも飛んでいました。そのあたりで、諸先輩の会話を聞き、作句のヒントにさせていただきました。
 
 湖水の近くの石垣に腰をおろし、湖からの気持ち良い風にうたれ、佐知先生の野外講義を受けたのは大変印象に残っています。
 
 その後、センターへもどり、昼食をすませて、1時30分からの句会に備えました。27名参加の句会は、例によって佐知先生、恭生・浩先生及び諸先輩の皆様の御指導受け、緊張そして感動の時間があっという間に過ぎました。
 
 多数の御参加ありがとうございました。
 
 
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膳所城が紹介されているのホームページ
https://www.shirofan.com/shiro/kinki/zeze/zeze.html