今津町界隈吟行記
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平成20年7月13日  野田ゆたか
  引鶴の七月吟行は、恒例の第2日曜日である13日に、貫野浩先生のお世話により琵琶湖北部西岸の高島市今津町で開催された。

 今津町は、船舶、牛馬交通時代の昔は交通の要衝として栄えていた。江戸時代には、今津から日本海の若狭につながる若狭街道から運ばれてきた米や海産物などを、今津港から大津方面に運ぶ湖上交通の拠点となっていた。
 
 当時の若狭街道は、今津と若狭の距離が九里半であったことから「九里半街道」とも呼ばれていた。

 当日は、主宰をはじめ、大阪・京都からの参加者が午前10時03分着の電車でJR今津駅に到着し、地元の方々とのご挨拶の後、すぐに吟行に移った。

 京都からの道中は、午後からの炎天を予言する如く、朝曇の状態で比良山系は水蒸気が上り峰々を煙らせ、湖はどんよりと曇り対岸の景が見えない状態であった。

吟行の人待つ駅駅よ朝曇 浩

 吟行は、駅前から琵琶湖周航の歌資料館・今津観光港桟橋・琵琶湖周航の歌記念碑・今津ヴォーリズ資料館・今津教会・旧今津郵便局・泉慶寺・石田川簗瀬から句会場の浜分漁業会館へのコースで始まった。

 駅前から東方へ約250米で観光港に出るが、途中「琵琶湖周航の歌資料館」で、周航歌の作詞者・作曲者に関する資料を拝見し、頭の中で混在していた「琵琶湖周航の歌と琵琶湖哀歌」の違いの整理ができた。
 
 またこれらの資料を拝見した後、館内で聞いた周航の歌からは、ボート学生らの行動力と詩的感性をうかがい知ることが出来た。

館涼し湖周航の歌流る 徹

 今津観光港は、琵琶湖一周クルーズ、竹生島港を経由して対岸の長浜港を結ぶ竹島クルーズなどの便が定期的に発着している。

 同桟橋近くでは、湖に立ち込んでバス狙いの釣人がルアーを繰り返し打ち込んでいたのでしばらく様子を見ていたが、ヒットはなかった。

 琵琶湖周航の歌記念歌碑は、桟橋脇に建てられ全歌詞が刻まれ、上部にはボートの図柄が刻まれていた。

 港からは、県道海津今津線、通称「風車通り」の湖岸寄りに平行して通じている市道湖岸線、通称「浜通り」を北上して今津ヴォーリズ資料館に至る。同資料館は、明治38年米国から滋賀県立商業学校の英語教師
 
に赴任されたヴォーリズ氏が退職後、建築会社を立ち上げ残した多くの建築物の一つで、館内にはヴォーリズ氏が手がけられた事業の歴史的資料が展示されていた。また近くには、ヴォーリズ建築物と言われる今津教
 
会、郵便局舎などが保存されていた。

旧銀行ヴォーリズ館に涼しく居 美和子
  
ヴォーリズの偉大な業績しのぶ夏 清美

 今津教会を見るあたりから朝曇が解け始め暑さが増しはじめた。暑さの中、浜通りの家と家との間の辻子(細い路地)から、えり・ヨット・モータボーなどをちらり、ちらりとのぞき見ながら泉慶寺へと向かった。

ゆるやかなヨットのながれ湖の景 佐知
  
炎帝に叶ふ湖辺となりにけり 窓城
 
 またこの通りには、湖魚を扱う店や和菓子などの老舗があり、鰻を焼くのが見え、香ばしい匂いのする店などがあった。

焼きたての鰻の肝のほの苦し 不二子
 泉慶寺の開基は文明5年で、蓮如上人の教化を得て帰依した当時の坂本の代官杉生主水が開いたと言う。同寺内にお初の墓がある。
 
 お初は、蓮如上人が請うた一夜の宿での受難の身代りとなり死を持って難を回避させ、無事に上人を旅立たせたと言う。
 
 当時、お初の墓は、近くの山に建てられていたが、後の人たちにより同寺内に移され、その後堂が建てられほぼ等身大の墓石を「お初地蔵」と呼ぶようになったと言う。

お初碑の読めぬ文字あり夏深し 沢子

 また同寺苑には、昭和19年から終戦まで大阪市立堀川国民学校の三年生以上が学童集団疎開していたと言う疎開碑があり、戦争の悲惨さを再認識させられた。
 
 碑を拝して、余生になお、吟行作句に時間を自由に使える今の世をありがたく思うこととなった。

炎天下旧街道をぞろぞろと 清美

 更に浜通りを北上するのであるが、途中、通りに面した家々の鉢植えの蓮、桔梗、百合、葵、ガーベラ、向日葵、松葉牡丹、夾竹桃など夏の草木、或いは路傍や湖畔の樟、青桐など木々や野苺、露草など夏草が茂っていた。
 
 さらには小川の水草の茂り、藻の花、河骨、未草など植物の季題が豊富で句材に事欠かなかった。

夏萩や若狭を示す道しるべ 雄次郎

 正午前に今津駅北北東約1,500米の地にある石田川河口の上流約150米辺りに設けられた簗瀬に到着した。

葭切は声だけ聞かせ葦の陰 長吾

 簗瀬辺りの河川敷は背の高い葭など水辺植物が茂り、簗漁を荒らす鷺撃退用の鷺威、太めの天蚕糸が上下流約10米ごとに両岸間に張り渡らされていた。

 ここの簗は、いわゆる上り梁で琵琶湖から約10キロ米上流の荒谷山麓のダム湖辺りまで上ろうとする魚類を生け捕るもので時期によりアユ・ウグイ・ハスなど魚種が異なる。

 当日簗壷に落ちていたのは20糎前後のハスのみであった。ハスは、塩を振り、炭火で白焼きにして酢醤油でいただけば、小骨があるものの白身で美味である。また塩漬けにして熟鮨の材料にも用いられる。

 句会場の浜分漁業会館には正午過ぎに入り、昼食をいただき、午後1時20分締切で句会が始まった。

 句会は、嘱目8出句、互選8句で進行し、貫野浩先生が披講士を務められた。その後西ア佐知主宰から披講と寸評をいただき、午後3時45分頃閉会となった。

 閉会後、大阪・京都からの参加者は、地元の皆様のお心遣いで今津駅まで車で送っていただきました。
 
 地元の皆様には、吟行各ポイントのご案内、昼食など句会場のお世話に加えて帰路にまで大変お世話になりました。ありがとうございました。

あなどりし日帰旅の日焼かな ゆたか
 
 
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琵琶湖周航の歌資料館のホームページ