泉慶寺の開基は文明5年で、蓮如上人の教化を得て帰依した当時の坂本の代官杉生主水が開いたと言う。同寺内にお初の墓がある。
お初は、蓮如上人が請うた一夜の宿での受難の身代りとなり死を持って難を回避させ、無事に上人を旅立たせたと言う。
当時、お初の墓は、近くの山に建てられていたが、後の人たちにより同寺内に移され、その後堂が建てられほぼ等身大の墓石を「お初地蔵」と呼ぶようになったと言う。
お初碑の読めぬ文字あり夏深し 沢子
また同寺苑には、昭和19年から終戦まで大阪市立堀川国民学校の三年生以上が学童集団疎開していたと言う疎開碑があり、戦争の悲惨さを再認識させられた。
碑を拝して、余生になお、吟行作句に時間を自由に使える今の世をありがたく思うこととなった。
炎天下旧街道をぞろぞろと 清美
更に浜通りを北上するのであるが、途中、通りに面した家々の鉢植えの蓮、桔梗、百合、葵、ガーベラ、向日葵、松葉牡丹、夾竹桃など夏の草木、或いは路傍や湖畔の樟、青桐など木々や野苺、露草など夏草が茂っていた。
さらには小川の水草の茂り、藻の花、河骨、未草など植物の季題が豊富で句材に事欠かなかった。
夏萩や若狭を示す道しるべ 雄次郎
正午前に今津駅北北東約1,500米の地にある石田川河口の上流約150米辺りに設けられた簗瀬に到着した。
葭切は声だけ聞かせ葦の陰 長吾
簗瀬辺りの河川敷は背の高い葭など水辺植物が茂り、簗漁を荒らす鷺撃退用の鷺威、太めの天蚕糸が上下流約10米ごとに両岸間に張り渡らされていた。
ここの簗は、いわゆる上り梁で琵琶湖から約10キロ米上流の荒谷山麓のダム湖辺りまで上ろうとする魚類を生け捕るもので時期によりアユ・ウグイ・ハスなど魚種が異なる。
当日簗壷に落ちていたのは20糎前後のハスのみであった。ハスは、塩を振り、炭火で白焼きにして酢醤油でいただけば、小骨があるものの白身で美味である。また塩漬けにして熟鮨の材料にも用いられる。
句会場の浜分漁業会館には正午過ぎに入り、昼食をいただき、午後1時20分締切で句会が始まった。
句会は、嘱目8出句、互選8句で進行し、貫野浩先生が披講士を務められた。その後西ア佐知主宰から披講と寸評をいただき、午後3時45分頃閉会となった。
閉会後、大阪・京都からの参加者は、地元の皆様のお心遣いで今津駅まで車で送っていただきました。
地元の皆様には、吟行各ポイントのご案内、昼食など句会場のお世話に加えて帰路にまで大変お世話になりました。ありがとうございました。
あなどりし日帰旅の日焼かな ゆたか
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