水間寺一帯吟行記
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平成20年4月13日  八木 徹
  4月13日(日)は引鶴の吟行で、泉大津句会の恭生先生が担当され、お世話して下さいました。花は散り終え葉桜になっているかなと思っていましたが、現地に着くと花が半分以上残っていて、得をした様な気分になりました。
 
豆咲いて耳擽れる里の風 三津子
 
 水問鉄道終着の水間駅前に、午10時まで句友を待ちました。駅舎は宝塔を模した建物で、有形文化財との表示がありました。駅前には昔の丸い郵便ポストがあったり、駅舎の庇に燕の巣があったりで懐かしい思いをしました。
 
寺を模す駅舎の九輪つばくらめ 悦子
 
 全員の揃ったところで、車、タクシーに分乗し、先ずは国宝釘無堂(考恩寺)である。門を入ると忠魂碑、鐘楼があり、老樹の桜が立派に咲いていました。堂前に等身大の地蔵尊がまつられ頭上は欅若葉が覆っています。その横に青々の句碑がありました。
 
句は、弥勒佛の下生をいつと囀れる 青々

  まもなく住職の奥様より句碑と寺の由緒等の説明があり、句碑は老僧青々がこの寺に来られた時に作られた句とのこと。寺の由緒は、聖武天皇が四十九院の立派な寺院を発願せられ、建築の一切を僧行基に委嘱したようです。
 
花の風寺の由来を坊が妻 圭子
 
 この辺は、木島、木積の地名であり、木材の豊富な所だったそうです。大工は飛騨の匠を連れて来たとの事です。創建当時(726年)は七堂伽藍が聳え、僧の数も700名を数えたと言われています。
 
一堂を残す残花や木積の地 浩
 
 ところが足利時代この地方の所領をもらっていた山名氏が起した応仁の乱で、大半の御堂を焼失し、その後の秀吉による根来寺攻めで唯一つこの釘無堂だけが焼け残ったとのことです。
 
根来攻逃る十九躯花の寺 壽
 
 今の堂は鎌倉時代に建て替えられているが、大阪では最古の木造建築物で国宝 に指定されており正式名は古佛観音堂で本尊仏は阿弥陀如来です。
 寺院建築は組物で鉄釘等は用いず建てられています。
 
かぎろへり釘無堂の屋根瓦 静代
 
 里人は釘を使用していないのを自慢し、言いふらしているうちに釘無堂になったとの事ですと説明を終られました。
 
うららかや行基葺なる孝恩寺 ゆたか
 
 その後本堂を出て庭を通り宝物館へ案内されました。館内に入り、十九躯の仏様の説明がありました。
 
秘仏みな榧の一木春灯 浩
 
 釈迦三尊は無常の教えであるとのことや、釈迦仏の右手に持っておられる剣は、判断の大切さを教えられているとのこと。僧は仏像か自分の体かどちらを大切にするかを判断するとき、仏像の方を大切にするとのことでした。
 
春愁や兵火の仏祀る寺 保
 
 このお話を聞いたとき、私ならどう判断するだろうかと考え込みました。そして日本中でこの寺にしかないという水を守る仏像が二躯あって一躯は難陀龍王像、いま一躯は跋難陀龍王像であるとのことでした。
 
釈迦三尊無情の教へ花は散る 徹
 
 最後に戦火の中何はさて置き仏像だけは助けねばと池の中に投げ置き、戦火の収まるのを待って、池の中より取り出して堂に納め、十九躯の仏像が残ったと縷々説明を受く。
 
 釈迦仏の胸と手の部分に焼き討ちの火で黒くなっていたのには心を打たれました。
 
十九躯国宝仏佛の館日永 佐知
 
 宝物館を出て、それぞれ車で水間寺に移動しました。水間寺は私にとって前厄、本厄、後厄とお参りした懐かしいお寺です。
 
 水問寺略記を引用しますと、龍谷山水問寺は聖武天皇の勅願所で僧行基の開創であり、御本尊は身丈1寸8分の聖観世音菩薩です。
 
花は葉に弥勒信仰つづく里 浩
 天平16年2月、行基は勅令により、霊域を探し求めて来訪され瀧の辺りで白髪の仙人にお会いになりましたが、その仙人は僧行基に聖観世音の尊像を永遠に奉護し給えと言い終るや、自ら右臂を咬み切り巌石の上に置かれたのですが置くや忽変して龍の一臂となり亦白髪の仙人も不思議や龍と化して昇天したとあります。
 
芳草や聖観世音現れし渓 窓城
 
 この龍の右臂は今も寺宝として伝えられています。行基は霊像の出現に歓喜して奉護し、この地に伽藍を創立されました。
 
観世音出現の滝花ふぶき 和子
 
 しかしこの寺も秀吉の根来寺攻略の時火をかけられ、七堂伽藍や坊舎が灰となり、その後岸和田城主岡部美濃守は、本堂と三重の塔を再建され、現在に至っていますと書かれている。
 
由緒多々堂塔数多訪ふ遅日 窓城
 
 車を降りると広巾の橋があって向うに三重塔が見える。橋挟には水間寺の標石があって、石の灯篭はあるが山門もそれらしき門もなく、境内は明けっぴろげである。流石東光の寺と一人合点である。

山門の無き明るさに風光る ゆたか
 
 私は愛染堂の近くより境内に入り、堂前にあるお夏清十郎の墓に立ち寄る。墓前の花立には林長二郎と田中絹代の名が読みとれる。
 
夏近し苔の匂へるお夏塚 ゆたか
 
 愛染堂にお参りをして三重の塔を仰ぐ。初層には干支の細工物が周囲に掲げられているが全体としては古色豊かで歴史を思わせる。隣合せに本堂があって、二重屋根の堂々たる御堂である。
 
春光や寺格を誇る二重屋根 ゆたか
 
 句会場の客殿の前で、お弁当を貰って、本堂裏の観音山の落花一ぱいの石段を登りました。数段上には二手に分れる道があり、右手の道に薬師如来をお祀りしてある薬師堂、左手の道に行基菩薩をおまつりする開山堂、少し坂を登ると弁財天をおまつりする弁財天堂がありました。
 
花の塵踏みて奥院行基堂 久美子
 
 奥の院はこの三堂で僧の修行するところだそうです。我々数名は弁財天堂裏の石段に腰を下ろして弁当を食べました。前方に楓若葉が広がり楽しい昼食でした。
 
花見寿司明るき顔の揃ひけり 多津子
 
 さらに坂を登ると広場に出ました。この広場は寺唯一の行事で、正月2旦3日に行なわれる千本搗餅つき行事で、厄除の餅投げをする広場でした。
 
勅願寺てふ格式に緑立つ 佐知
 
 ここより引返し、寺の由来の浄域の滝を見学し、布袋石像の大きさには驚きました。厄除橋の中央に立つと川には大岩が横たわり、その間に淵が出来ています。
 
緑立つ庭に鎮座の布袋尊 喜美子
 
 この川に桜の枝が伸び流れに飛花落花の見事な美しさを見て感動しました。句会が始まる頃までこの厄除橋に立尽くしていました。

うららかや厄除橋を渡りけり 恭生
 
 今回吟行に32名もの多数の参加を頂きましたので、時間の都合上、6句投句、6句選句で午後2時客殿で句会が始まりました。互選披講そして佐知先生の句評を頂き無事吟行句会を終了することが出来ました。
 
先生方、お世話して頂きました恭生先生本当に有難うございました。又車を出して頂いた保様、壽様有難うございました。句友の皆様お疲れ様でございました。
 
 今回訪れた2寺とま共通点があり、特に僧行基は和泉国生まれで各種土木事業を起し、行基菩薩とあがめられ、和泉の生める最大の人物であることに親しみと誇りを持ち、再度訪ねたいと思った事でした。
 
 次回も多数の御参加をお待ちします。
 
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水間寺が紹介されているホームページ
https://www.mizumadera.or.jp/