意賀美神社吟行記
平成21年5月10日 西村舟津
引鶴恒例の5月吟行は10日、北河内の元宿場町枚方であった。
ここ数日来晴れて一気に夏が到来した。更衣をしてシャツ一枚でバスの出る松井山手へ、句友の寿美さんと同乗して京阪枚方駅へ着くと、いつもの顔が迎えてくれる。
久しぶり会へて嬉しき夏帽子 多津子
意賀美神社は始めてではないが記憶に乏しい。時折利用する電車の窓に迫る丘の上に鎭座の宮くらいの記憶である。
とにかくその方向へ歩を進める。整備された高架の下の通りには浄化された水が整然と小流れを形成し、種々の草花、特に紫蘭が直線的に咲き揃っていて美しい。
軽暖や枚方八景巡る歩に 佐知
神社への道には男坂と女坂があって、佐知先生始め大方の方は表参道男坂を行き、私を含めた6名は裏参道女坂を辿る。人家の裏の坂を抜けると高台で、意賀美神社の鳥居が迎えてくれる。
意賀美社にどっと吹きだす若緑 良一
急公配の木下闇は雑木山の匂いが籠りかなりきつい。しばらく登ると、伊勢神宮と明治神宮の逢拝所があって静かに質素な鳥居が立っていた。天辺に出るとそこはうらはらに強い夏の日差しが充満していた。
下闇の畏き処遙拝所 舟津
ここに意賀美神社の由来とともに枚方の地形が興味深い。所謂枚方丘陵と言われる生駒山脈の端山は昔から京の貴族達の狩座であり交野の森であった。さらに遡ると、3乃至4世紀の頃の万年寺山古墳がある。
竹林の風こそ涼し古墳山 舟津
古来より人々は居住し易い山間に定住したのである。明治37年枚方小学校の校庭拡張の時に銅製の鏡が出土して古墳とわかったと云う。
意賀美神杜は元は現在地より南へ100米の旧伊加賀村にあった水神であった。そして現在の万年寺山にあったのは須加神杜で牛頭天王といって悪疫退散祈願の寺であったが廃仏毀釈で廃寺となる。
日吉神杜は岡村の鎮守の神であったが応仁の乱で焼失、慶長5年枚方城主の本多政康が再興して、明治42年3杜は合祀されて意賀美神杜となった。
御即位のありし宮とや花は葉に 佐知
尚三杜は伊加賀村三矢村、岡村のそれぞれの氏神であり、現在も町名としてのこっている。境内杜として稲荷杜、琴平社がある。
万年寺山の緑陰は今も枚方八景として名を残している。神杜の境内は人影もなく輝くばかりの新緑に包まれている。時折黒い夏蝶が行ったり来たり侵入者を警戒しているようにも見えた。
影すてて夏蝶吹かれゆきにけり ゆたか
若葉隠れに赤錆びた砲弾の忠魂碑が建っている。本殿は奥に広く百度石もある立派な式内社で連理の榊も若葉している。
忠魂碑砲弾錆びて木下闇 岸野幸子
若葉風程よき距離の百度石 澄子
本隊がなかなか登って来ないので仕方なく下を見ると展望所らしき広場があって多くの人達が其処で休んでいる。
どうやら男坂を登ってきた先生を始めとした本隊である。急ぎ碓を下って合流する。其処は展望所となっていて遠く摂津丹波の山々が夏霞にけぶっている。
俯瞰する薄暑の淀のうねりかな 舟津
昔枚方城主本多氏のお茶屋御殿跡とか、芝生の丘に緋のつつじの垣が目に眩しい、輝く太陽は五月にしては強い、丘に沿い今まさに竹の秋である。
竹落葉光りつ風に舞ひ納め 佐知
ひらひらと舞い、くるくると飛び散りつぐ葉、筍は褐色に身を纏い鬱勃たる様を天に向けている。静かで空には眩しい太陽と竹林を吹き上げて来る涼風に身を委ねる。
新緑の八景の丘磴高く 窓城
戦国の武将達は皆この様な小高い丘を城にし天下を睨み又風光を愛でたであろうか。淀川に突き出た岬山に立ちいつまでも離れ難い気持ちであった。古墳山の高さ37米とある道を戻り意賀美梅林に入る。
淀川を守る岬宮の梅は実に 佐知
すでに実をつけた梅林は緑陰になり日の斑が踊っている様々な新樹が空を覆い吹く風が葉を鳴らして去る、蝶が飛び小鳥が鳴き、時折家族連れの乳母車が通るくらいである。
磴を上り再び神社に着く。二礼二拍手一礼して境内を巡る。
そこここに句碑があって楽しませてくれる。又紅白の箱根卯木が清楚に咲いてなかなかの風情である。
八景の緑蔭句碑をそこここに 窓城
今度万年寺山に上り感じた事は、これほどまでに緑が多い事である。句会場の参集殿の回りも若葉が囲み、緑の映える窓で弁当を摂り句会も滞りなく済みました。
句会場外は新緑いつぱいに 由美
これも一重に佐知先生、お世話の浩さん恭生さんの御盡力のお陰と思います。有り難うございました。
次回の吟行も皆様のお出掛けをお待ちいたしております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意賀美神社が紹介されているホームページ