仁徳陵・大仙公園吟行記
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平成21年3月8日  森本恭生
 引鶴恒例の3月吟行は、8日堺市の仁徳天皇陵と履中天皇陵に挟まれた大仙公園の一画にある日本庭園で、週間天気予報では当日は下り坂との事であったがその心配は無い様である。

 私は車を仁徳天皇陵拝所の駐車場に止め先ずは参拝し、余寒を感じたので車に引返しダウンジャケットを着て集合場所のJR百舌鳥駅に向かう。駅前には既に貫野浩先生がお見えで写真を撮っている様子、近付くと満開の桜、初桜である。
 よく見ると眼白が沢山花の間を行き交い、上の方には鵯が数羽春を謳歌している。それにしても今日ここで桜の満開を見られるとは思ってもいなかったのでしばらく見上げていた。

 そのうちに西崎佐知先生も早い目にお見えになり句友の方々も大方揃ったところで、西に400メートルの仁徳天皇陵の拝所にご案内致しました。
 
 この仁徳天皇陵は前方後円墳としてわが国最大で周りの濠を含めた長さは東西660米、南北840米で周囲は2718米、面積は約14万坪でその大きさから大仙陵と呼ばれています。

 JRで三国ケ丘駅から百舌鳥駅に至る一ト区問の長さであります。墳丘をめぐって三重の濠が造られ、その外側に12の陪塚があって、造営には毎日1000人が働き4年かかると計算されている。
 
 昨年文化庁の世界遺産暫定リストにこの百舌鳥古墳群と古市古境群が記載されたそうである。拝所には腰の高さに結界の石柵があり、二重目の濠の外にも又結界と鳥居があり、三重目の濠は見えません。

 それぞれ参拝を済ませ、濠に目を遣ると残り鴨の群がいくつか居て、鵜も潜っています。

 歩道を渡り一歩踏み入れると大仙公園である。ここは履中天皇陵と仁徳天皇陵に挟まれた広大な地で、寛永年間に堺の豪商木地屋庄左衛門によって開発された夕雲開と呼ばれる新田であった。
 
 それを大正15年に大阪農学校(大阪府立大学)が、大仙町に移転したのに伴って、その演習用の農地となり、その後昭和22年戦後復興の都市計画の一環として公園に指定された。
 
ものの芽の親し一万坪の庭 恭生

 昭和41年には府立大学農学部が中百舌鳥に移り、都市公園として整備が行われて、昭和46年に平和塔も建設され昭和55年市制90周年事業として堺市博物館が出来、茶室2棟も移築された。
 
 その10年後の市制百周年記念事業として今日の日本庭園が完成したのである。下萌の進む芝生を廻り、池には残る鴨を見、枝垂柳の芽吹き等春の息吹を感じつつ日本庭園の入り口に達しました。
 
 この日本庭園は昭和の小堀遠州と讃えられ、大阪芸術大学長も務めた中根金作氏により造営された、築山林泉廻遊形式で、庭全体を海外貿易の拠点として栄えた堺に見立てて設計されている。

就中芽柳美し苑の昼 恭生
 
 また本日の句会場の休憩所は数奇屋風寝殿造となっております。日本庭園に入りますと正面は休憩所となっており、その外囲りには椿の鉢が所狭しと並べられ、どうやら椿展の催しが行われていたのです。

 多種の椿も見応えがありますが椿展も最終とかで、花の勢いは少し衰えているのが残念でした。休憩所は池泉に迫り出すかたちで造られており傘亭、盧山、甘泉殿を見渡すと散策を促している様に思われる。
 
 暫くの休憩の後庭園を廻る。この庭園は南北に300米と長く瓢箪の形になっていて休憩所はその下部に当ります。
 
 瓢箪の口に当る所から石津川を模したせせらぎとなって、瓢箪の底部は大海を表し対岸は中国の友好都市連雲港市を形作り、こちら側を日本の堺として休憩所は納屋衆の集会所に見立てているのである。
 
 遡って参りますと大きな橋で映波橋と云う。此処からは先ほどの休憩所や対岸の甘泉殿と、池泉全体を見渡せて眺めの一番良い所と云われています。
 
 橋を途中で引き返し元の道に戻りますと、満天星つつじの芽がつんつんと真直ぐに上を向いて近々の開花を想像させてくれています。
 
 また奥に目を遣ると雪柳が可憐な花を開きかけた所で、その白が可憐さを倍加しております。上流に向かっていくと又橋があり春燕橋で袂に枝垂柳が3本、えも言えぬ淡い萌葱色、まるでオーガンディでも被せた様に佇んでいます。

 芽吹き初めたところで近付くほどに綺麗で枝が縦縞になって風に揺れると色が滲む様である。それに惹かれて暫くの間行きつ戻りつ見上げたりを繰返したが、結局は句として纏まらず前に進む。
 しばらく行くと川が分岐しその上が、石津渓として地元の石津川の渓流をイメージした流れは緩急織り交ぜた流れとなっている。この辺りから庭園は広くなり前方に四阿が見えてくる青苔亭である。

 丈夫そうな八ツ橋が掛けられています。此処は初夏には花菖蒲や杜若が咲き乱れる所で、今は咲き残った梅が河畔にあるだけである。さらに湖ると源流の水が活々と流れ出している。

 此れより歩道は狭くなりゆるい坂を登ると一気に広場に出て、今までとは一変した石張りの歩道と芝生敷きの桃源台で、泉北丘陵を表しており平和の象徴である桃源郷には、桃の白い花が今を盛りと咲き乱れている。

 ここの面積は430坪程の広場である。その中流杯亭と言う建物があり中国の友好都市から贈られた石に曲水を模した小さな水路を刻み水を引き入れて流せるようにしている。

 広場の周囲三方はブロックを40糎ほど積み上げ高さ120糎位で、面積は120坪にも及ぶ花壇であり、総株数は600株と言う牡丹で埋められている。折りしも、全ての株枝より真っ赤な芽が燃え立って居る様は壮観である。
 
  出揃ひてぼうたんの芽の満を持す 恭生

 牡丹の時季に又訪れる事を心に約して未だ行ってない傘亭、盧山、甘泉殿へと来た道とは反対の道を歩む事とする。道道に色々な草木が植えられ年間を通じて必ず何かの花を楽しむ事が出来る様になっている。
 
 先ほど見入った糸柳を今度は反対側から眺める、芽柳のカーテンを透した向うの池泉に迫出した休憩舎の景色も、空の蒼さと相俟って格別である。坂を登ると傘亭がありこの庭園を見下ろせる一番高い所にあります。
 
 ここからは上流部の桃源台から全てが見渡せるようになって居ます。次は盧山でなだらかな山で中国江西省の名勝盧山を模して造られた築山で、一面おかめ笹に覆われているのが印象的です。
 
 道は池の縁まで下りると飛び石状になっていて、直ぐ左上から滝が落ちるように造られています。そこを渡ると赤の柱に青の瓦で如何にも中国風の四阿で甘泉殿といいます。
 
 この向いには島を挟んで休憩舎が見え、島には昨年飛べなくなった雄の鴨が降り最近一羽のやさしい雌の鴨が降りたち番となったとの事、今、島の上で羽を休めて居るようです。

 道端には沈丁花が開きかけた所で近付くと灰かな香りが漂っております。少し行くと休憩舎に戻ります。

  餌をもらふ鯉春水を盛り上げて 恭生

 丁度弁当を外の道路まで取りに来るようとの電話があり、圭子さんに手伝って頂き、名代の穴子鮨を配り昼食後の締め切りで清記、選句と順調に運び、披講を幸子さん、静代さんに手助けして頂き舟津さんの披講と続きました。

 最後は西崎佐知先生の懇切丁寧な御指導があって句会を終了しました。有難うございました。

 今日の吟行は殆んど日本庭園一ヶ所で広い大仙公園の一部しか見る事はできませんでしたが他に博物館、千利休縁の茶室、緑化センター、履中陵等見るものは多く、交通の便も良く訪れ易い所ですので、是非また訪ねてください。
 
その外の筆者の詠句
防鳥網飛出してゐる牡丹の芽 恭生
園丁の矜持にかけし牡丹の芽 恭生
 
 
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仁徳陵が紹介されているホームページ
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/mozukofungun/kofun.html
 
大仙公園が紹介されているホームページ https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/daisenkouen.html