平安神宮の初詣につづく、2月の吟行は、11日大阪も南端の阪南市尾崎の西本願寺尾崎別院と、地酒で秘酒とも云はれる浪花正宗の浪花酒造である。
南海本線難波発8時55分発急行乗車、大阪湾岸のコンビナートを右に見ながら、若い頃の海水浴の浜辺の景を懐かしみつつ、間をおいて飛び翔つ旅客機を見ながら新空港を過ぎる頃尾崎に着く。
駅の西口を直角に5分程歩くと旧紀伊街道へ出る。右へすぐ寺門があり尾崎別院の境内である。
慶長3年当時の領主果法院桑山伊賀守重晴(豊臣方)が、11間4面の堂宇を建立し、本願寺へ寄進したのが最初で、時まさに天下を決める関ヶ原の戦の2年前であり、本願寺が京都へ寺基を定めて4年後の事であった。
元禄13年11月晦日の祝融(火災)に逢い、再建の方途なく、村人は天を仰いで呆然自失の態であった。その4年後、たまたま嵐の翌朝、尾崎の浜に巨木積載の船が漂着して居るのを発見し、これは天与のものと喜び拾って再建の材料とした。
宝永2年9月上棟完成した。それは徳川綱吉の治政の時代である。以来、誰云うとなく不思議の御坊と呼ばれる様になったと寺縁起にある。
近年激しい時代の変遷にもまれ、見る影もなくさびれていたが、門信徒を中心とする有縁の厚い懇念が実を結び、見事によみがえり、往年の威容を整えている。
平成5年3月に完工した平成の大修理の成果である。本堂内陣は瞳をみはる、まさに西本願寺のきらびやかさである。山門を入った左側には立派な鐘楼が建ち、本堂右の寺務所、庫裏等も立派な建造物である。
それほど広くない境内のほぼ中央に大銀杏があり、雷神の怒りに触れたらしく幹は裂け梢を落としているが命をつなぎ、早や芽立ちを見せ、洞には寄生木が緑の葉を揺らせている。不思議の御坊の面目躍如と云ったところである。
整はぬ春や内殿騎羅の坊 舟津
伝説の不思議の御坊春寒し 澄子
幹裂けて尚新芽伸ぶ大銀杏 圭子
別院を辞居し町を歩く。昔の面影を残している巾に新しさが混在する不思議さを漂はせているかに見える。
しばらく行くと大阪湾の防潮堤にぶつかる。一寸途切れた所があって浜に出る。茅渟の海の古名のある和泉灘で、この風が四天王寺に由緒の貝寄風で、ほっとして深呼吸。
沖は関西空港で間をおいて航空機が発ち、機首を上げる。空港島の長さに比し随分と手前で飛び立っている。安全確保の為であろう。第2滑走路の長さは4粁と聞いた。完成している。
足許は砂浜であるが、貝殻が浜を覆っている感じで貝寄風の名に恥じない。波も結構荒くて、春の海はのたりのたりではないのかとの質間があったが正しい答はできなかった。
貝殻を拾って投げてみたがうまく海面を滑ってはくれない。防潮堤と同じ高さの漁家の軒下には、蛸壷が積み上げてあるところや、串に刺して魚を干している家もあって、嘗っては盛んな漁港であった事を思はせる。
突出して空港淳かぶ春の海 木賊
春日や眩しく光る空港島 不二子
春浅し軒にころがる蛸の壷 圭子
次は地酒で秘酒とも云はれる知る人ぞ知る。浪花正宗の浪花酒造である。酒造業250年、現当主は十代目、成子和弘氏で大学卒との事。ただ美味しいだけでなく「心を満たす豊かな地酒」を提供するをモットーに、手作りの伝統を守り続けて日々努力を重ねているとのお話であった。
がうがうと米蒸す音の寒造 和弘
寒造プチプチプチと生きている 同
今になほ手作業極め寒造 同
今回の吟行をお受け下さった上で、下手ですがと提供下さった句です。流石の迫力である。
蔵に入ると六角に形取った井戸があって、さし渡し約2米、覗いて見ると深きに水面があって、天井を映している。
酒造りでは水が生命と云はれる。蔵主は、この近くのお大師様の水が美味で知られている様に、この水は大変おいしく、酒蔵の歴史を今後も守り続けるであろうと力強く語ってくれた。
冴返る空に煙突寒造 律子
くぐり戸の奥より匂ふ寒造 寿美
門一歩酒の香りの寒造 佐知