四天王寺吟行記
平成21年1月11日 森本恭生
平成21年今年の初吟行は5年前の師走、翔鶴先生の七回忌法要の行われた四天王寺と佐知先生より知らされたのは、忘年会の席上であった。これはどんな事があっても出席しなければと心に決めていた。
と言うのも翔鶴先生の法要が四天王寺で行われたその門で正秋先生の「なにわ七幸めぐり」の看板の句を見、吟行初参加の私に吟行記をと佐知先生が鞭を打って下さったお蔭です。
こうして今も俳句を続けられているので、私にとっては特別な聖地なのである。行けば翔鶴先生、正秋先生にお会い出来る、そのような思いの深い所で、私と俳句の第二の出発点、原点でもある。
当日は誰よりも早くお参りをしようと、天王寺駅に8時に着き歩こうと思い阿部野橋交差点脇に立ったところ、何故か50年近く前に踊るような手さばきで交通を整理していた警察官の姿が懐かしく甦った。
この辺りは鉄橋が架かかり天王寺公園があったりで当時とそれ程変わっていない。一つ目の交差点を渡ると当時あった座売りの菓子問屋は銀行ビルに、パチンコ店は3軒あったのが1軒のみであるが、昔と同じ様に営業している。
歩いて行くうちに悲田院町があり路地道が昔のままで、懐かしさのあまり右に入り裏道をゆくもマンション等で以前の面影は全くないので又表通りを歩く、地形は変わらないのか小さな上り下りは以前そのままの様である。
上りきった所が四天王寺の西門前交差点の前で懐かしさついでに西門入り口にある製薬の○○堂さんを覗く、ここも薬品課時代の馴染みである。参道に入ったので、私事で随分遠回りした事をお詫びして本題に戻します。
石の烏居の下で時間を見ると8時30分、境内はまだひっそりして厳かである、取敢えずお参りをしてから此処に戻っても充分時間があるので、七回忌法要の時の手順と同じ様にと西大門を潜り北鐘堂に向かった。
そして亀の池、石舞台と進み六時堂で翔鶴先生、正秋先生を思い浮かべて心経を誦経し、亀井堂に回り今日の個人的な第一目的を達成した安堵と同時になにか淋しい様な気がした。
一息つくと寒さを覚えたので来た道を引き返し石の鳥居まで戻る。ここで日本最古といわれる四天王寺について請売りであるが少しふれておきます。
587年蘇我馬子と物部守屋との争いで物部氏が優勢になった時、当時14歳の聖徳太子が、ぬりでという木を使って四天王の像を彫り「この戦いに勝たせて頂けるなら、四天王を安置する寺院を建立します」と祈願された。
その後、形勢は逆転し崇仏派の蘇我氏が勝利し、その誓いを果たすために6年後の593年に建立に着手した事は日本書記に記されています。建立に当り「四箇院の制」をとられた事が四天王寺縁起にあります。
四箇院の制とは仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病人を収容し病気を癒す療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院の四つの施仏教の根本精神の実践の場であります。
これらの施設は中心伽藍の北に建てられ、その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ南から北に向かって中門、五重塔、金堂講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で日本では最古の建築様式とされている。
平安時代は最澄の興した天台宗、弘法大師空海の興した墓言宗の二大宗派に深く関わります、空海は787年に四天王寺に仮住まいし西門で西の海に沈む夕日を拝して西方極楽浄土を観想する日想観と呼ばれる修行をはじめました。
又最澄も816年に四天王寺に仮住まいして、上宮廟に入り法華宗を広めようと六時堂等を創建したと伝えられています。
837年には最初の別当に真言系の東寺の阿闍梨円行が就き、暮言宗とのつながりもありますが、以後は殆んど天台宗の僧が任に就いているようです。
この天台化による四天王寺信仰の特色としては、聖徳太子を天台大師の師匠に当る南多岳慧思禅師の生まれ変わりと説き、法華思想を取入れると同時に、久遠釈迦如来への信仰、特に舎利信仰が盛んとなりました。
また天台浄土思想とも結びついて四天王寺を極楽浄土の東門の中心でり、現代も西門、石の鳥居の扁額に記される「釈迦如来転法輪処当極楽土東門」、の文字が示すように四天王寺の信仰の大きな柱となったということです。
現在の鳥居はずっと時代は下がり1294年に、それまでの木造から石に変えられたものですがそれでも715年も経っている。
長い四天王寺の歴史の中では幾度も戦火で消失しては再建の繰り返しで、最近の災難は昭和9年の室戸台風、昭和20年の大阪大空襲で殆んど消失しましたが昭和32年から6年を費やして鉄筋造りで再建したものです。
これほど何度も消失再建を繰り返した寺は他にはないとの事ですが、其れだけ信仰が深かった事と大阪の財力という事でしょうか。時間待ちのあいだ随分脱線してしまいましたが皆様お揃いの四天王寺極楽浄土の庭に参ります。
庭園の入園料300円をそれぞれ払い、本坊の渡り廊下の下を潜るとすぐに3000坪の庭園の片隅である。この庭園は釈迦の滝から瑠璃光の池を結ぶ火の河と、二河白道の庭に至る水の河の問に挟まれた白道があります。
火の河は人生の逆境にあるときの瞋(しん・怒り恨む事)で、水の河は人生の順境にある時の貧(どん・むさぼり)であり、何れも生き地獄であり、この間の白道は極楽浄土に至る細い細い道とされています。
この道は凡俗な者には見えません。極楽浄土への道を真に願い精進した者はこの道が見え白道を進むと極楽浄土に到達し往生できるといいますのが、私は二度目ですが何も見えません。
なにも見えないまま進むと途中に青龍亭、臨池亭がありこの辺りから皆さんは作句に一生懸命で真剣な眼差し、私は5年前の事を思い出しながら一人で進んでゆくと極楽の池に突き当たりました。
この池で暫くすると佐知先生から鮴はどうですかと声を掛けられました。
先生は5年も前の事を鮮明に記憶されておられる様子。
庭をぐるりと回り湯屋方丈の縁に腰を掛けると板にある温み、朝と気温がまるで変わりぽかぽか陽気に、朝も早かったので少し眠気を催すも句帳は白紙のまま隣の句友はずっと何かを書き留めている様子。
このままではと思い八角亭の方に目を移した時に翡翠が飛んで皆同時に声を上げました。一瞬の出来事であったが非常に嬉しい。都会の真ん中で翡翠を見るなんて本当に幸運で句を得た。きっと翔鶴先生が見せて呉れたのだと思う。
時計を見るとそろそろ句会場に向う時間になっている。万両、山茶花と、出口にほころんだ梅を見て庭園を後にした。途中で軽く食事をして会場までタクシーに乗る。
明るくて立派な会場で和気藹々のうちに句会も進行、途中窓の外に目を遣ると風花が舞っている、吟行の間の屋外は四温晴れで暖かく、暖房の効いた部屋からの風花も格別である。
これもいい会場をお世話下さった浩先生、披講の良一様、舟津様に感謝すると共に四天王寺で見守って下さった翔鶴先生、正秋先生に御礼申し上げます。
吟行でのあたたかい指導、懇ろな句評を頂いた、佐知先生ありがとうございました。
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