鴻池新田会所吟行記
平成17年9月11日 西村舟津
9月11日は引鶴恒例の吟行である。河内は朝から蒸し暑い曇り空で、出席者が気になる。
JR学研都市線鴻池駅、10時が待ち合せ時刻であるが先着の多数の人達は先に会所の冠木門に来て居た。
10時には長駆滋賀県今津市の貫野浩さん、泉大津市の馴染の顔ぶれに、住吉区の初顔の誌友も来て下さっている。感謝感激である。
御存知の様に太古の河内は海の底であった。しかし海面の低下と河川からの土砂の堆積で湾を砂州が囲み湖沼化したと云う。所謂河内湖である。
その後益々乾燥が進みながらも、沼沢地は絶えず洪水に見舞はれ、平穏な地ではなかった。
江戸時代に入り宝永元年(約300年前)大和川の付け替え工事により、それまでの河川の川床、残存池沼等、1000町歩余が土地の有力者によって開発された。
その際井路が堀削され道、橋、樋門等が設けられたとあります。その開発に携わった最大の有力者が大阪今橋の豪商、鴻池善右衛門である。
新田会所は開発した新田の統括管理、運営所で農民に田畑を割当て、小作料をとり、お上にまとめて年貢を納めた。
新田内のあらゆる諸問題を解決する為規定を設け、採決する等大きな権力を持っていた様です。
前置きはさておき、会所への一歩は古色の冠木門を潜る。いかにも落ちついた江戸の世にタイムスリップした感じだ。
本屋に進む80畳の大土間の梁の太さその上の明かり取りの障子から柔らかな秋の日が入り、下には大釜小竈が皆で9個座っている。往時の盛況が偲ばれる。
柴の下から今にも昼の虫が鳴きだしそうだ。本屋は台所から座敷まで幾部屋も繋がり襖で仕切られている。
座敷表の先は生駒山を借景の池泉鑑賞式の平庭しかし今はビルで見えない。本屋の北隅には白州の跡がある。
新田の屋敷内には白壁の乾蔵、道具蔵、米蔵、文書蔵、屋敷蔵々が庭を取り巻いて、それぞれ歳月を越えて大事に保管されている。
そして貴重な品々が保管されている。鴻池家の財力の大きさと昔の農業の過酷さが垣間見えた。ブラウン管を使った説明も面白くて鴻池の事が子供にもわかるようだ。
子供の頃の踏車の展示は懐かしい、正に露けきものの一つであった。屋敷内の庭には草棉が二畝つくられ、オクラに似た花がいくつか残り、真白の棉を吹き初めている。
近くには藍が小さい叢をつくっていて、まさに河内木棉の発祥地である事を物語っているのである。又、矢筈の薄や萩が茂り、榎や樟の大樹が蔭を作っている。
新田の後は戦後の都市化であっというまに住宅地に化した。それも30年程で更に加速した感がある。その頃はまだ少し田もあった。
世の中変われば変わるものと感慨深い、鴻池新田会所の五十年後は勿論存続するであろう。子や孫へと時代は変わってもだ。
締切りは1時半、扇風機のみの旬会場で秋とは思へぬ暑さの中で句作りに励む、初めての人の紹介の後句会が始まる。本日は本当に御苦労様でした。今後ともこれに懲りずお運び下さいますようにお願いします。
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