4月9日の引鶴恒例の吟行は花の岸和田城で、城入口に午前10時集合と決められていた。私達泉大津の句友はほぼ30分前に到着、世話役の恭生先生は早くから待って下さっていたらしく一安心でした。
今日は丁度、市の「お城まつり」で種々行事が予定されているらしく、既に賑わい始めている感じである。
桜も満開、天候にも恵まれ、花下は青いシートが余地なきほどに敷き詰められ、家族連れ、グループが花見席を確保し、メンバーの揃っている所、まだ場所取の一人がつまらなさそうに本を読んでいる等いろいろである。
又祭店がずらりと並び、忙しく人が行き来している。
岸和田城は別名を「千亀利城」と呼び、1334年頃楠木正成の一族和田高家が築城したのが始まりと伝えられ、その後1585年、秀吉の叔父小松秀政が城主となってより五層の天守閣が築かれ、ほぼ城郭が整備されたとのこと。
江戸期に入るや松平氏2代を経て、高槻から岡部宣勝が入城し、以後岡部氏が13代明治維新まで岸和田藩5万3千石を治めてきた。
この間天守閣は落雷によって焼失し、他の城郭は明治期に取り壊されて、残っていたのは石垣と濠の一部のみでしたが、昭和29年鉄筋コンクリート造りで天守閣が、44年には城壁と櫓が再建されて現在に至っている。
現在の天守と隅櫓は、記録による復元と云えないが往時を偲ぶよすがにはなっている。10時過ぎ大方の人員が揃ったところで城に入る。
すぐのところに大甑釜が口を開け、その大きさに当時の城内の賄いの凄さに改めて驚かされる。驚ろく間もなく、高く現れたのが復興の三層天守閣で、白壁に浮く最上層の唐破風、12層をつなぐ千鳥破風が何とも美しい。
その天守閣の前が、かの有名な八陣の庭であり、周囲は花爛漫である。
天守閣の入口横では老若男女10人程による邦楽演奏(琴と尺八)がされており、すぐ近くに野点席が設けられて、花に緋毛氈が映え、和服姿の美しい娘さん達、これぞ日本の美と称讃するに足る景であり心が落ち着く。
ゆっくりと天守閣に登る。東西南北視界が拡がっている。空港島も茅渟の海も遠霞、見える筈の淡路島も定かでない。黄沙かも知れないと思っていると、昨日はこんなものではなかった。
確かに霾であったと誰かの声。目を城内に戻す、暫くは俯瞰の八陣の庭に視線を奪われる。
中国兵法の八陣法をテーマとして大将を中心に天、地、風、雲、龍、虎、鳥、蛇の各陣を配したものとかで変幻自在の幾何学模様に、それぞれの石組、真白の砂紋を描いて海の中の蓬莱を表現したものと説明されている。