大阪城・豊国神社吟行記
平成17年1月10日 門田窓城
大阪に本拠を置く引鶴には、豊太閣ひいてはその遺徳を偲ぶ事のできる大阪城に、格別の親しさがあって、少くとも年に一度は吟行、句会を催して来ている。
新年の計画は1月10日に決定されていたのであるが、図らずも引鶴の再出発の初回吟行会となった。前日までの予報の天気図は冬型の縦縞で雨まじりの季節風が強く、気温は低いとあって気が揉めること、揉めること。
しかし当日の朝になると前夜の雨はからりと上り、太陽燦々である。先づは吉兆の前ぶれと喜ぶ。早い目に家を出て来て梅林を散策する。
結構、老夫婦等、人が多い。それもその筈で臘梅は今を盛りであり、寒紅梅、寒野梅等がさきがけて咲き香を放って人を呼んでいるのである。
或る老人が草笛を上手に吹いている。躑躅の葉だと云って笑った。この梅林は43種、1100本の梅で2、3月が見頃である。
この梅林の外、堀端の道を柔道着の少年らの列が掛声勇ましく走り過ぎ行く。寒稽古である。仰ぎ見ると天守閣が聳え、唐獅子の金や鯱鉾の金が輝やいている。
心が弾んでくる。集合場所の豊国神社へゆく。一ノ鳥居からの正面には、時ならぬ茅の輪が設へられている。社務所に聞くと、その輸をくぐって身を祓い清めた上で初詣をし願い事をすれば霊験あらたかと云ふ。3年前からとの事。
参拝して唐破風を見上げる軒に特大の開運絵馬が掛けられてる。境内には山口誓子の「花盛ん築城巨石又盛ん」の旬碑を始めとする句碑歌碑や献木が数え切れない程ある。
何故かお笑のものが目立つ。本日の顔がほぼ揃いいざ登城である。天下統一の夢を果たした豊臣秀吉が築城した壮大な大阪城(錦城とも)は大阪夏の陣(元和元年・1625年)のとき2万の兵と共に落城し、灰燼に帰した。
今の天守閣は3代目で、昭和六年完成したコンクリート製であり、現在の美観を呈しているのは、平成9年春平成の大修理として完成したものである。
桜門の登り口の坂の両側は空堀となって、枯れ残った草に雄の鶏が2羽、草をつつき遊んでいる。今年の干支の象徴であろうか。
桜門には立派な門松が立てられ、右の寒紅梅は満開に近い。この門を額縁として天守閣が毅然と収まり絵画的構図となっていて美しい。
門を入ると左手に銀明水が、今になほ人の喉を潤す役目を果している。正面の城垣には山口誓子もその運搬方法に頭をひねったであろう蛸石、左方には振袖石等の巨石があって圧倒される。
桝形を抜けると天守閣前の広場で、視界を塞ぐかに大銀杏の裸木が小枝の突端まで見せて広がっている。右手には博物館、中央にはタイムカプセルが次回西暦3000年を待って眠っている。
左手には土産物店、レストラン等、更にその奥まった処には手入れの行き届いた林泉があって、天守閣を逆さに輝やかせている。
気が付いてみると数台のカメラが三脚に載って時至るを待って居て、その持主が屯ろして雑談している。聞いてみると斐翠が来るのだと云ふ。
漸く待ったがその気配もなく去ろうとすると、待ちに待って斐翠が来てカメラを向け、問合ひを計ってシャッターを切る。その時の緊張感が堪らないと云って笑った。納得。久し振りに天守閣に登る。
天守閣の入口にある井戸が金明水と呼ばれ、今は涸れているが秀吉が水の解毒の為黄金数枚を沈めたと云ふ伝説がある。
天守閣にはエレベーターが設置され5階までは一気である、最上階の八階が展望台、地上約50米で、広大な大阪城公園、近代的高層住宅、遠く広がる大坂の松並や生駒金剛の連山が一望である。
それにしても風冴ゆるの季語を身を以って感じさせられる。又大勢の観光客か声をあげているがよく聞きとれない。私の耳のせいではなく外国語である。
韓国か中国か、中には白人のグルーブも居て大阪城の一つの風物となっているのかも知れない。そう云へば大阪城ガイドは四ヶ国語で作られていた。
そこかしこに黄金が使はれた天守閣、その豪華さは秀吉が黄金好きであった証であり、後世、マルコポーロに黄金花咲く国と云はしめた日本の金産出の最盛期にあった事を思はせます。
中でも3階の黄金の茶室はその象徴である。.この展示の茶室は復元模形で当時の明るさを模して寒灯を昏めている等の演出も見落せない。
演出と云へばハイテクが種々駆使されている。7階のジオラマ、「からくり太閤記」は秀吉の生涯を十九のストーリーにわけて再現し、5階の「大阪夏の陣図屏風の世界」では巨大映像と、ミニチュア模型で臨場感たっぷりにわかり易く紹介されていて見応え充分である。
レストラン錦秀の御配慮による句会場でいつもの通り和やかな句会となり、正秋先生の御不在は淋しいけれども新しい代表を盛り立てて行くべしと心を新たにした次第です。多数の御参加有難うございました。
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